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恥さらし

読み物として読んでください

誕生日に飽きた話

またTwitterの話。

 

リアルでの友達と絡むためのアカウント、いわゆる「リア垢」のTLは大体いつも同じだ。キラキラした自撮りとかインスタの投稿ツイートとかバイトの愚痴とかテストの出来とか。この1年で大学生はラーメンの写真を載せたがる生き物だということも知った。ほぼ毎日誰かしらの誕生日で、「〇〇歳になりました、祝ってくれたみんなありがとう!」ってテキストとプレゼントに貰ったお菓子の写真やぼかされたLINEのスクショが流れる。大量のお菓子や雑貨とはわざわざ別にネックレスやらリングやらのアクセサリーの写真も載せるのも彼女達のテクニックだなあって感心する。その下には「おめでとう」と、昨日誕生日だった人に送ったものとは少し内容を変えたリプライが並ぶ。毎日違う誰かの誕生日で、それぞれ違う写真違う文章なのに私はその光景に飽きてしまう。大学というコミュニティに入りたての頃は私も彼女達の誕生日を祝った。いくつも似たようなお祝いの言葉が並んでいてその中に私のリプライも埋もれていた。次の日も少し文章を変えただけのリプライを別の人に贈った。また次の日も。この繰り返しに単純に飽きたのだ。それから私は誰の誕生日にも反応しなくなった。だってほとんどの友達は個別にLINEで祝えるから。もっと言うと直接会えるから。みんなが見ている場所でこのやりとりをする必要性を感じなかった。それでも他の人はTwitterという場所で同じやりとりをこなしている。みんなが見ている場所、というのが多分ポイントで、つまりそういうことなんだと思う。意識的にか無意識的にかはわからないけど、ほとんどの人は承認欲求というものを持っている。そういうことだと私は思っている。

もしかしたら友達が少ない私の僻みなのかもしれない。人気があってカーストが上の人の誕生日にはたくさんのいいねとたくさんのリプライが届く。人気かそうでないか(それだけではないけれど)が、残酷なことに数字で目に見えるのだ。それもみんなが見ている場所で。なんとなくこのことに嫌悪感を抱いた。私は、自分の評価が数字になることを無意識のうちに恐れたのかもしれない。

 

私はTwitterのプロフィールに誕生日を入れていない。だからその日が来ても私のプロフィールに風船が飛ぶことはない。去年の誕生日は家族も近い友達も祝ってくれたが、その事実をTLに放流することもしなかった。出来心で、誰にも誕生日であることを言わなかったらどうなるのか、Twitterに誕生日を載せないとどうなるのかを実験してやろうと思ったのだ。当日誕生日について触れてくれた大学の友達はいつも行動を共にしている2人。この2人にしか誕生日を教えていなかったので当然の結果だ。その他気づいてくれた高校までの友達は片手に収まるくらい。1ヶ月ほど経ったあとに焦ったようにLINEを飛ばしてくれる友達もいた。何も知らせていなくても覚えていてくれる友達がいることにびっくりしたし感謝した。誕生日を祝ってくれることに感謝した、というよりもTwitterがなくても私の存在を認めてくれている友達がいることに感謝した。

私は自分の誕生日に実験するような女で、誕生日を祝うという行為自体ににそこまで重要性を感じていない。その人が生まれた日を家族が祝うなら意味がわかる。本人が自分の生まれた日を大事にしているのもわかる。けれども友達、つまり他人の生まれた日を果たして本当におめでたいと思っているのか。自分でも友達の誕生日を本当におめでたいと思っているのかはわからない。一応は覚えている人には何かしらの形で祝っていることを伝える。多分、誕生日というイベントにかこつけてプレゼントを贈り合う行為が重要になっている。このイベントが蔓延してる。飽きた。ただ飽きた。

純粋に心から他人の誕生日を祝っている人もいるかもしれない。今はもうTwitterで見る誕生日のやりとりに自分でアクションを起こすことなく冷めた目で見る私の心が荒んでいるだけかもしれない。でも飽きたからもう私はTwitterでリプライを送らない。

 

 

 

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