我楽多箱

あと2年は学生です。古いものを探してぷらぷらしてます。

いじめの加害者になる可能性


こんばんは。

頭の中をぐるぐるしていることがあるので書き殴ってみます。


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今さっき、NEWS ZEROでいじめに対する学校の対応の不適切さが取り上げられているのを見た。被害者の生徒の訴えで泣けてきた。


先生の対応はどう見てもおかしいのだが、いじめが騒がれている今どうしてこんな対応になるのか。自分のしていることが異常だという自覚がないからとしか思えない。


教職課程をとっているので、当然生徒指導であったりそれに関する心理学の単位を履修する。不登校や非行、いじめの対処や寄り添い方を理論的に。机上論といえばそれまでで、目の当たりにするときっとセオリー通りの対処なんて出来ないと思うけど。その状況しだいで柔軟に対処しなければいけないよね。まあ、その講義を当たり前のように聞いている。いじめはいけないことだよね〜って感じで。


どんな状況であっても、いじめはいじめであって、被害者に原因を求めてはいけない。これも、当たり前だよね。





しかし、しかしだよ。頭ではこう理解している私も、自分の自覚がないところで加害者になっていたかもしれないこと。これがさっきのZEROを見てからずっと頭の中をぐるぐるしている。



基本的には「いい子」でありたかった私は、「死ね」「カス」「殺す」とか、容姿の悪口とかは言わなかった。言いたいと思ったことも無かったし、道徳的に「あり得ない」と思っていたから。暴力はもちろんふるったことがないし、無視もしたことがない。 


どちらかというと、距離を置かれがちな子のことを気にかけたりする方だった。性格の良い子だと自分で思っていたところがある。(こんな自覚のある奴は大体性格が悪い)



だから、誰がどう見てもいじめだと判断できるような「明らかないじめ」には加担していなかった。いや、どんないじめでもいじめはいじめだけど。そもそも私の学校は、よく報道に上がるような暴言や暴力、無視によるいじめが起きるような学校ではなかった。知らなかっただけで実はあったのかもしれないが。荒れていない、平和な学校で有名だった。



けれど、中学生(特に女子は心当たりがあるかもしれない)は、「〇〇って〜じゃない?」「〇〇って〜だよね」という会話はわりと日常的に起きる。褒めていることもあれば、欠点のことを言っていることもある。

私は「〇〇ってはっきりしないよね。はっきり言えばいいのに」とか「あの仕草ぶりっ子みたいに見えない?やめたほうがいいよね」とか、そういう会話をしてしまった覚えがある。日常会話的にしてしまいがちで、ちょっとだけ罪悪感があったとしても、他の子も言っているからこれくらい普通だと思ってしまう。読んでいる数少ない人の中にも、もしかしたら心当たりがある人もいるかもしれない。いや、そんなことは絶対にしていないという素晴らしい人もいるかもしれない。もしもこれを本人が聞いていて、傷ついてしまったことがあったとしたら、私もれっきとしたいじめ加害者である。

わりと私はものごとをはっきり言ってしまうタイプだったかもしれない。少し尖っていた部分もあったと思う。キャピキャピしたタイプが苦手で、教室の真ん中より少しずれたところで友達と噂話をした。噂話が好きな年代だし、周りの子も似たような会話をしていたのだが、そんなものは言い訳にならない。今の感覚で考えてみると私は決して性格の良い子ではなかったのだ。当時は自分のことを性格の良い方だと思っていた。死にたくなる。


今は昔に比べて性格が丸くなったという自覚がある。だから今の自分が中学生の自分を振り返って反省することができてるのだが。反省できたからと言って、自分の言った言葉が自分の体内に戻ることはない。もし、私の発した言葉の中で、誰かを傷つけたものがあるとしたら、本当にごめんなさい。


おそらくこの程度の会話は日常で蔓延っている。これがどれだけ人を傷つけ得る可能性があるか、考える機会はあまりない。こんなことを言っていたら、思ったことも何も言えないじゃないかという人もいるかもしれない。そうである。というか、そうあるべきなのだ。本来、なにかを自分の口から発するときは細心の注意を払わなければいけない。自分の口から出た言葉が、どこでどう作用するかわからないから、責任を持たなければいけない。だけど、普通に生活を送っているぶんにはなかなか意識できない。難しいよね。こうやって文にすると、そら当たり前やろって思うけど。それが本当に自分の生活で徹底できているかどうかと言われると、どうですかね。どうですか?私は、なかなか胸を張って「誰も傷つけていない」と言えない。だってテレビの中の人を批判したりするし。



昔の私を知る人で、今更善人ぶった態度をとる私を見て不愉快に思う人もいるかもしれない。だから綺麗事は言わない。自覚していないところで人を傷つける可能性はどんな人にもあるし、無くすことはほとんど無理。だけど、言葉が凶器になり得るというのは大袈裟じゃないという意識を持つことと、もし自分の言葉が人を傷つけた事実があったと気付いたらその時点で謝る勇気を持つことでちょっとは変わる。私も中学生のとき、これに気付いていたらなあと思う。


教員になろうとしている人が、人を傷つけてきた可能性があることを子供達が知ったら、保護者が知ったらがっかりするかもしれない。けれど、私は言葉の恐ろしさに気付いている。世の中にはまだ気付いていない大人もいる。中学生の自分が知らなかったことを、今を生きる子ども達に伝えることは必要なことだと思う。子供達は、日々の中で被害者になったり加害者になったりするだろう。いろんな救い方があると思うけれど、私は自分の経験から、言葉の可能性についていつもより少しだけ危機感を持ってもらうことを手伝えたらと思う。

偽善だとか言われるかもしれないが、気づかないで生活しているよりは確実にマシだと言える。マシな自分を、人のために全力で使おうと思う。


国語の教員として、真っ先に教えたいことは言葉の脅威。素晴らしいものであって恐ろしいものであることを、子供達にはぜひ知ってもらいたい。







おわり